中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

大人の脳に存在する「未成熟脳」

ではカムケーツー欠損マウスの脳の中でいったい何が起こっていたのだろうか?

「作業記憶に問題があり、しかも気分に波があるということは、このマウスの海馬に何かが起こっているに違いありません。そこで私は、カムケーツー欠損マウスの海馬を取り出して、海馬でどんな遺伝子が発現しているかを解析しました。すると、約2000種類の遺伝子の発現パターンが変化していること、さらに海馬の歯状回で、成熟した神経細胞だけに現れる『カルビンジン』というタンパク質が激減していることに気づいたのです」

さらに調べていくと、カムケーツー欠損マウスの海馬の歯状回の神経細胞は、長さも短く、樹状突起の枝分かれの数も少なく、形の上でも貧弱な細胞であること、電気生理学的に見ても、発火しやすいがすぐに興奮が冷めてしまう、未成熟な神経細胞であることが明らかになった。

「海馬の歯状回は、大人になっても神経新生が起こる部位です。ところが、カムケーツー欠損マウスの歯状回では、新しく生まれる神経細胞のほとんどが未成熟のままだったのです。これは、カムケーツー欠損マウスだけの特別な症状なのか、それとも、大人の脳の中に未成熟歯状回を持つマウスは他にもいるのか? それを調べるため、これまで網羅的行動テストバッテリーにかけた遺伝子改変マウスの中から、同じような行動異常のパターンを示すマウスを探したところ、統合失調症のモデルマウスである『シュヌリ2欠損マウス』、また同じく統合失調症様の行動を示す『カルシニューリン欠損マウス』、てんかん発症とのかかわりが指摘される『SNAP-25』をノックインしたマウスも、未成熟歯状回を持っていたことがわかりました。これは世界で初めての発見でした」

カムケーツー欠損マウスでは、海馬での成熟神経細胞のマーカーであるカルビンジン(図版の白く見える部分)が顕著に減少している

このほか、遺伝子が改変されていない普通のマウスでも、てんかんを引き起こす「ピロカルビン」や、抗うつ薬を投与し続けると、歯状回の成熟した神経細胞が疑似的に未成熟な状態に舞い戻ってしまう「脱成熟」という現象が起こることもわかった。
こうして、大人なのに、脳の一部だけが未成熟な「未成熟歯状回」という現象は、ある種の行動異常を起こすマウスに共通して見られる現象であること、薬剤の投与などによっても後天的に生じることが明らかになったのである。
さらに、亡くなった統合失調症患者の一部に、未成熟歯状回に似た状態があったことも免疫染色や遺伝子解析によって判明した。

その後研究を続けるなかで、大人の脳の中に未成熟な細胞が存在するという現象は、歯状回だけではなく、他の部位で見られることも明らかになっていった。
「例えば、シュヌリ2欠損マウスと統合失調症の前頭葉の遺伝子発現パターンはそっくりなのです。同じく、健常な乳児と統合失調症患者の前頭葉の遺伝子発現パターンも、よく似ていました。また、抗うつ剤を投与すると、不安にかかわる脳の扁桃体が未成熟状態に誘導されることもわかりました」

そして、こうした「未成熟脳」という現象がなぜ生じるのかを探ったところ、神経の過剰興奮によって、炎症と脱成熟が引き起こされるというメカニズムの一端が少しずつわかってきたという。

「私たちは統合失調症を含む精神疾患に、脳細胞の成熟度異常が関係しているのではないかとの仮説を立てています。通常、健常者の脳細胞の成熟度は、ストレスや神経の過剰興奮、炎症などによって、成熟の方向に行ったり、未成熟な方向に行ったりダイナミックに変化します。ところが、何らかの刺激によって閾値を超えて未成熟の方向に行ったきり戻らなくなった状態が統合失調症で、逆に過成熟のまま高止まりになった状態がうつ病ではないかという作業仮説を考えています」

宮川先生は、遺伝子とこころや行動の関係を知る上で、「未成熟脳」という脳内中間表現型を考えることで、シンプルな原理を導き出せるのではないかという。

「例えば、統合失調症を考えてみると、たくさんの遺伝子多型が関係しているといわれており、また、環境要因としては結婚や就職などのライフイベントの変化、妊娠時の感染などさまざまな要因があります。つまり、それぞれの患者がどうして発症するかは個々に異なります。
発症の原因は人それぞれでも、それが引き金になって分子・細胞が異常をきたし、慢性的な炎症や過度の神経興奮がもたらされ、『未成熟脳』が形成される。そしてこの未成熟脳が、統合失調症に特有な作業記憶障害や社会性の障害など、多くの統合失調症患者に共通の症状を引き起こすのではないでしょうか。
統合失調症だけでなく、うつ病や自閉症、人格障害なども、今はまだ明らかになっていない、共通の何らかの『脳内中間表現型』があるはずです。私たちはそれを明らかにしていきたいのです」

「未成熟脳」という脳内中間表現型によって、精神疾患に共通の説明ができるかもしれないんだって。
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