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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

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MCH神経が活動すると記憶の形成が阻害される!?

MCH神経はレム睡眠を直接コントロールするものではなさそうだが、レム睡眠にかかわる何か別の機能を担っているのではないか。では、MCH神経は脳のどこに情報を伝えているのだろうか?

視床下部に局在しているMCH神経が軸索を伸ばしている先を調べたところ、主に海馬という記憶の中枢に集中していることがわかった。ということは、MCH神経は記憶にかかわる何らかの働きをしているのではないか? そう考えた山中先生が取り組んだのが、MCH神経とマウスの記憶の関係を調べる研究だった。

マウスの記憶を調べる実験はいくつかある。ひとつは「新奇物体認識試験」だ。マウスは見たことのない新しい物体に興味を持つ性質があり、新しい物体を見つけると近づいて探索行動をとる。まず部屋に同じ物体を2つ入れておきマウスに自由に調べさせる。一定時間たったあとに片方を違う物体に変更すると、記憶していれば新しい物体のほうをより時間をかけて探索するはずだ。その接触時間を調べることでマウスの記憶を評価しようというものだ。

「新奇物体認識試験」では、最初に2つの同じ物体を記憶させたあと、一定時間をおいて片方を取り換え、接触時間を調べる

「この試験で、MCH神経があるマウスと、MCH神経を脱落させたマウスを比較したところ、なんとMCH神経が脱落したマウスのほうが有意に記憶がよいことがわかりました。遺伝子を壊すと記憶ができなくなるということはよくあるのですが、遺伝子を壊したほうが記憶がよくなったなんて、ほとんど聞いたことがありません。そもそも遺伝子は必要だから存在しているはずで、記憶を悪くするようなものが脳の中にあるのは不思議ですよね?これは何だかおもしろいことになったぞ、と思いました」

記憶力の変化を新奇物体認識試験だけで判断するわけにはいかない。ほかにも「モーリス水迷路」という円形のプールでマウスを泳がせる実験や、「文脈的恐怖条件付け」という実験を行い、いずれの試験でも、MCH神経を脱落させたマウスのほうが記憶がとてもよくなっていたことが確認された。

モーリス水迷路
1カ所だけ、水面下にプラットホームがあるプールでマウスを泳がせる。マウスは泳ぎたくないのでどこかで休みたいが、休める場所が見つかるまで泳ぎ続ける。プラットホームにたどり着くまでの時間を測定し、場所記憶と学習の程度を調べる実験。MCH神経を脱落させたマウスは1日か2日でプラットホームの場所を覚え、すぐにたどり着くことができるようになるが、MCH神経が正常なマウスは1週間かかってもたどり着くまでに時間がかかった。

マウスはある部屋で電気ショックを受けると恐怖でフリーズしてしまい、その部屋をいやな場所として記憶する。一定時間経過後にネズミを再び同じ部屋に戻すと、電気ショックを受けた時の恐怖記憶が蘇り、電気ショックが来ないのに恐怖記憶でフリーズする。フリーズの時間を測定することで記憶の程度が評価できる。 MCH神経が脱落したマウスは、脱落していないマウスよりも長い時間フリーズしていた。

一方、ブザー音を聞かせたあとに電気ショックを与える条件づけをしたのちに、別の部屋でブザー音を聞いただけでフリーズするかどうかを試す実験も行った。

「恐怖音条件づけ試験は、海馬ではなく扁桃体がかかわっているとされる記憶を評価するものですが、この場合はMCH神経が脱落しているマウスも普通のマウスと同じ反応でした。以上の実験から、MCH神経が海馬に蓄えられる記憶とかかわっていて、MCH神経が活動すると海馬の記憶形成が阻害され、MCH神経が活動しなくなると海馬に依存した記憶がよくなるという仮説が導かれたのです。そこで海⾺の錐体細胞の活動を記録しながら、海⾺に伸びているMCH神経の末端を光遺伝学の⼿法で活性化させたところ、海⾺の神経活動が抑制されることが明らかになりました」

視床下部のMCH神経と海馬における神経活動の抑制(図版提供:山中章弘教授)