公益財団法人テルモ生命科学振興財団

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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

やがて登場するかもしれない「記憶を自在に操作する薬」

レム睡眠のときにMCH神経が働いて記憶の消去が行われているとしたら、いったいなぜなのだろう? 記憶の消去にはどんな意義があるのだろう? 私たちはレム睡眠のときによりダイナミックな夢を見るといわれているが、MCH神経の活動は、夢とも何か関係があるのだろうか?

「残念ながらそこはまだわかっていないのです。今回はマウスでの実験ですが、私たちの脳にもMCH神経はあって、おそらくレム睡眠のときに活発に活動していると推定できます。私たちは睡眠中にいろいろな夢を見ますが、起きたときにはその内容の多くを忘れてしまっていますよね。ひょっとしたらレム睡眠中に活動するMCH神経が記憶の消去とともに夢を忘れさせているのかもしれません」

なにしろ、睡眠と覚醒のメカニズムの研究はようやく本格的に始まったばかりで、睡眠の役割すら有力な仮説はあっても、明確に証明されているわけではないのだ。しかし、ヒトだけでなく、どの動物も睡眠する。眠っている間は警戒レベルが著しく低下しているから自然界で生きている動物にとっては捕食される可能性が極めて高く、眠っていては命にかかわる危険がある。にもかかわらず睡眠をとるのは、眠ることによって生存確率が高まる何らかの役割があるからだろう。この生存に有利になるための役割の一つが、記憶なのではないかと山中先生は考えている。

「どこに食べ物があったとか、どんな場合が危険なのかとか、さまざまな記憶を、起きているときに正しいタイミングで引き出して正しい行動ができないと死んでしまいます。そこで睡眠によって記憶を固定化したり、関連づけたりしているのではないでしょうか」

ではその大切な記憶を、レム睡眠のときに消去する働きがあるのはなぜなのだろう。
「これは研究データから導かれるものではなく、個人的な仮説ですが、一つ考えられるのは、眠っている間に記憶を定着させたり関連づけさせたりしているとすると、記憶が膨大になってしまう。そこで大切な記憶とそうでもない記憶とに分類して、いらないものは間引いて捨ててしまう必要があるのではないか。そのようなときに、記憶を消去するという“圧力”をかけると、大事な記憶が消えにくく、一方どうでもいい記憶が消えやすければ、大事な記憶だけが残るのかもしれません。あるいは、脳が覚えられる記憶容量には限りがあって、記憶が溜まる一方では困るので、どうでもいい記憶は順次捨てているのかもしれません」

となると、記憶と夢の関係はどうなのだろう?

「記憶がノンレム睡眠中に固定されるという研究はいくつもあります。私はレム睡眠のときには、さまざまな記憶の関連付けが行われるのではないかとみています。睡眠中には、過去に何かが起きた場所や状況、最近のできごとなどをさまざまな要素に分解し、つなぎあわせる作業が行われていて神経細胞が発火しますが、その際、同時に発火している関係ない要素がくっついて脳が勝手なストーリーにしてしまう。それが夢で、でも現実ではありえないストーリーなので消去してしまう。勝手な想像ですが、そんなときにMCH神経が活動してそれを消す役割を担っていたとしても、つじつまが合いますよね」

睡眠や記憶、夢については、これからの研究の進展によってさまざまな謎が解けていくに違いない。先生はどのように研究を展開していくのだろうか。

「MCH神経が記憶の消去に関係しているらしいことはわかりましたが、実はMCH神経からはMCH以外にもさまざまな物質が伝達物質として出ています。それらのうちどの伝達物質が記憶の消去にかかわっているかということや、その際のメカニズムはまだよくわかっていません。今後はそれを探求していこうと考えています」

記憶には忘れてしまいたい記憶もある。記憶の消去の秘密が明らかになれば、事故や災害などでトラウマとして残っている恐怖心がよみがえってしまう心的外傷後ストレス障害(PTSD)で、いやな記憶を消してしまう薬の開発につながるかもしれない。

「記憶をよくする薬や記憶を操作する薬なども考えられますね。今はまだ夢物語で道のりはまだまだ険しいですが…。でも光遺伝学やゲノム編集の技術など新しい技術がブレークスルーを生み出し、それまでわからなかったことが明らかになっています。ですから、新しい技術を組み合わせて自分たちの実験系に適用することで、オリジナリティのある研究ができると思うのです。睡眠や記憶に限らず、脳の働きがどのようにわれわれの思考をつくっているのかとか、意識がどうやってできているのかとか、そういった、だれしもが疑問に思うようなことに現代の科学はまったく答えられていませんが、いずれは解が見いだせるはず。若い人には、どしどしそんな研究にチャレンジしてほしいですね」

(2020年1月6日更新)