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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

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イェール大学で研究と子育てに追われる

———学位を取得したあとの研究は決まっていましたか。

研究室に入ってしばらくして、上村先生は研究によって昆虫を知りたいのではなく、昆虫を材料にした分子生物学で細胞を研究していることにやっと気づきました。私はもっと昆虫の生き様について知りたかった。そこで、学位を取った後に自分は何をすべきか、いま学んでいる分子生物学の知識を活用して次にどんな研究をやるべきかを、大学院生1年目からいろいろな本や論文を読んでずっと考えていました。

———卒業後はイェール大学に留学していますね。イェール大学に決めた理由は?

じつは大学院を修了してすぐに、研究室の先輩*と結婚したんです。夫婦で一緒にアメリカに留学しようと決めていたので、先に夫がアメリカの数カ所のラボにインタビューに行き、イェール大学に決めたのです。総合大学なら研究室もいろいろあるから、後で私も合流しやすいと考えてくれました。そして、私も1年後に渡米して、イェール大学医学部のリン・クーリー(Lynn Cooley)教授のラボに入りました。リンは、ショウジョウバエの分子遺伝学の黎明(れいめい)期を支えた学者で、転移因子による遺伝子導入技術を確立した立役者です。研究業績だけではなく、彼女の人柄に一目惚れして、ラボを決めました。

*研究室の先輩:現在、筑波大学 生存ダイナミクス研究センター 生理遺伝学研究プロジェクトを率いる丹羽隆介(にわりゅうすけ)教授

———留学は3年ちょっと。具体的にはどんな研究をしたのでしょう。

栄養に応じた母性因子**の輸送についてです。ショウジョウバエの卵巣では、まず1個の生殖幹細胞が4回分裂して16個の細胞になります。そのうち1個だけが卵母細胞になり、残りの15個は哺育細胞になります。哺育細胞は、卵母細胞と細胞質がつながっていて、卵形成に必要なRNAやタンパク質などの母性因子を卵母細胞に供給します。私は、この母性因子の輸送をライブイメージングで解析している過程で、この輸送が飢餓条件ですみやかに止まるということを見出しました。すなわち、母親の栄養状態が悪くなると、卵の発達はすぐに抑制されるということです。

**母性因子:受精をする前の卵母細胞にもともと含まれている遺伝子や、それに由来するタンパク質などのこと。

———卵を作るより、母親の健康を優先するんですね。

そうなんです。過去の文献では、母親の飢餓状態が3、4日続くと卵巣が縮退することが報告されていましたが、私の実験では、母性因子の輸送は飢餓状態から2時間ぐらいでピタリと止まります。そして、栄養状態が元に戻ると2時間ほどで輸送が再開します。細胞レベルで解析すると、飢餓ストレスから卵母細胞を守るシグナル伝達経路が2時間で駆動されていることが明らかです。こんなにも素早く、母体の健康状態を察知して柔軟に対応できるメカニズムがあるとは予想していなくて、見つけたときには体が震えました。
その後の解析によって、卵母細胞を未発達のままで留めておくことで飢餓をやり過ごす仕組みがあることが示唆されました。栄養があったりなかったりする自然環境の中では、卵母細胞の迅速な発達調節は重要な仕組みです。生き物の振る舞いに直結する研究だったので、とてもやりがいを感じました。

———研究以外で、イェール大学での思い出はありますか。

渡米して半年で妊娠し、在米中は研究と子育てで怒涛の毎日でした。普通ならもっとキャリアが定まってから産むのかもしれませんが、私は個人的な事情もあってお医者様から早く産んだ方がいいと言われていたんです。だからポスドクが決まったら産もうとは決めていたんですが‥‥。

———初めての留学で出産とは大変でしたね。子育て環境はどうでしたか?

ボスのリン自身が、研究をしながら子供を2人育てた人なので、一番喜んで協力してくれました。ラボで陣痛で動けなくなった私を運んでくれて、出産にも立ち会ってくれました。乳児連れで実験できるように小部屋を空けてくれたり、娘さん達が子守をしてくれたり、旦那さんがお弁当やご飯を作ってくれたりしました。ラボのメンバーだけではなく、隣のラボの人たちも、イェール大学に来ている日本人研究者の方々全員が助けてくれました。一度、寝不足すぎてラボの床で寝てしまったことがあるのですが、実験フロア全体の室内灯を私1人のために消して、みんなが暗い中で実験してくれていたので大変驚きました。

ラボで、10か月ごろの長男と

マイクロピペットを手にご機嫌(息子さん単独画像)

左から2人目がリン・クーリー博士。右から2人目が島田先生。

———安心して研究にも取り組めたんですね。

ところが、子供が生まれて半年も経たないうちに夫が帰国してしまいました。まさか通らないだろうと思っていたポストに受かったんです。チャンスだからと夫を見送りましたが、さすがに私1人で子育てと研究は大変でした。1年頑張ったけれど、ワンオペではいろいろ限界で、夫が勤務する筑波大学のポスドクに応募して受かったので2009年に帰国しました。