この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」

中高校時代に出会った「ものすごいヤツ」

───中学生のころ将来何になりたいと思っていたのですか。
中学生のころ、兄弟集まって(左端が先生)

中学生のころ、兄弟集まって(左端が先生)

当時はまだ、自分がどんな可能性を持っているか、将来の道をどのように思い描けばいいのかもよくわかっていなかったというのが正直なところです。ただ、中学1年生の時に、母親が「世の中にはいろいろな大学がある。地元の山梨大学や東大だけじゃなくて、京大もある」という話をしてくれました。そこで私が聞いたのは「京都大学って、いい大学?」(笑)。田舎育ちの子ですから、その程度の世間でした。インターネットで浴びるように情報を得られる時代ではなかったので、大学のことなどまったく知識がない。そんな息子に、東大や京大の名をちらつかせた母親もなかなかのものです。母親から東大や京大に進学するには成績が良い必要があると言われ、それならとりあえず勉強しようと。古今東西、田舎で生まれ育った子が、自ら未来をたぐり寄せられる手段として、勉強かスポーツが一番手っ取り早い。母親は、その未来をつかむ方策のひとつを教えてくれたのだと思います。

───具体的にはどんな風にして勉強したのでしょう。

塾に通ったのですが、そこで一気に世界が広がりました。中学2年生の時だったでしょうか。その塾で、いま東京大学生産技術研究所の教授でマイクロナノデバイスによるモノづくりの研究をしている竹内昌治君と出会いました(竹内昌治先生の研究については「DOKIDOKI研究室 いま注目の先端研究・技術探検! 第19回 点・線・面の細胞ブロックを活用し、三次元構造の組織をつくる」を参照)。彼は既にそのころから「竹内というすごいヤツがいる」と、その名を知られていました。塾の合宿で初めて話をして、彼が他の人と違う「何か」を持っていることを実感しました。

───どこが違ったのですか。

ほんの一例ですが、彼はノートとして、幼稚園生が使う罫線のない自由帳を使っていました。かわいい絵柄の表紙なので、周りのクラスメイトが最初馬鹿にしました。しかし彼は「受験の答案用紙には罫線が入っていない。今のうちに慣れておかないと」とすまして言うわけです。その言葉を聞いて、私も含めて友人達が次の日から自由帳を使い出した(笑)。高校入学の際、そして卒業時と竹内君は首席。高校では3年間一緒のクラスで、彼が委員長で私は議長として彼の補佐に回り、学園祭から合唱コンクールまでいろんな場面で、彼のリーダーシップを目の当たりにしていました。今や二人で教授業、共同研究で一緒に論文発表もしていますが、竹内君がいなかったら、甲府の片田舎にいながらも目標を高く持ち続けて自分の道を切り開くことはできなかったかもしれません。それほど彼の存在は大きかったですね。

───生物学への興味はいつごろから芽生えたのでしょう。

最初は漠然と機械工学でもやろうかなと考えていました。それが高校1年の秋、生物の授業で「DNAがRNAに転写されて生命を司るタンパク質を合成する」いわゆる『セントラルドグマ』についての講義があり、それに大変な衝撃を受けました。それまで、生物学は嫌いだったのです。生物をいくら分類しても生物の仕組みはわからない、それならラジウムの化学反応や物性、または精密機械を知るほうが面白そうだと思っていた。ところがセントラルドグマは、生物もある法則に則った仕組みを持っていることを教えてくれた。まさに自分がやるべき方向性が決まった瞬間でした。
その授業が終わった直後、生物の先生に「これはSFですか。生物の中身がまるでパズルのように動いているなんて信じられない」と興奮冷めやらず聞いたほどです。すぐに自転車で甲府市の書店に行き、免疫学者である本庶佑先生の『遺伝子が語る生命像』(講談社ブルーバックス)を手に取りました。その本を読んで驚愕したのは、「DNAのりしろ酵素」の存在。DNAを切ったり貼ったりできるなら、新しい生き物ですら作ることができる…こんな面白い学問があるなら、遺伝子を扱う研究者になりたいと思ったのです。

───何かクラブ活動はしていましたか。

卓球部と生物部に入っていました。生物部では、植物色素をクロマトグラフィで分離したり、ニンジンの根からカルスを作ったり。飼育していたアフリカツメガエルを死なせてしまったことも。小学校のころから実験が好きだったので、課外で実験もしていました。ひとつ挙げると、味付け卵。味つけ卵は、殻つきのゆで卵なのに、むく前から塩味がついています。それが不思議だった。生卵をあらかじめ塩水に浸けておくと、簡単に塩味をつけることができます。一方、甘い味のゆで卵は作れるかというと、これがそう簡単ではない。卵殻の内側にある膜は一種の半透膜で、NaClは通すけれどショ糖ほどの大きさの分子は通さない。そこで、卵を酢につけてその膜を変性させると、糖分を通すようになって、甘いゆで卵ができました。これらの実験を繰り返していた時は、毎日卵ばかり食べていました(笑)。

ボランティア活動をしていた高校生時代。その時の仲間と(右から2番目、白シャツを着ているのが先生)

ボランティア活動をしていた高校生時代。その時の仲間と(右から2番目、白シャツを着ているのが先生)

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