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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

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大学時代の部活が縁で、臨床の現場へ

———いろいろなしがらみがあって臨床に進んだということですが、どんなしがらみが?

ひとつには大学時代の部活が関係しているんですよ。

———どういうことですか?

大学時代はバレーボール部とスキー部に入っていました。富士山麓の山中湖畔に「山中寮」という医学部の厚生施設があり、夏の間はそこで学生の仲間たちと一緒にひと夏を過ごしていました。

———合宿ですか?

それだけじゃなくて、当時の山中湖村は、ふだんは人口が少ないけれど、夏の期間はヨットやボートを楽しむ人が多いし、キャンプや学生の合宿地としてもにぎわっていて、そのときだけ人口が10倍ぐらいにふくらむんです。それなのに医者がいない。

———けが人や急病人が出たら大変…。

そこで山中湖村と契約して、夏の間だけ千葉大医学部OBの医師とわれわれ学生とが協力して診療所を開設していて、ぼくらはOBの先生の手伝いをしたりしていました。その間は、飲み食いはタダで、夜は毎日宴会でしたが(笑)。

———青春の思い出ですね。

それともうひとつ、富士山の山梨側の七合目に富士山救護所というのがあって、そこの運営も千葉大医学部に託されていて、山中寮のOBの医師と学生とが2泊3日の交代で泊り込んで診療に当たっていました。この山中寮の顧問教員である部長を長年にわたって担当してきたのが、麻酔科の教授だったのです。
そういうこともあって、山中寮から毎学年1人は麻酔科に入局するという“不文律”があった。ぼくの学年は5人いて、ぼくをのぞく4人は脳神経外科とか整形外科とか別の科への入局を希望していました。ぼく自身は大学を卒業したら大学院に進んで、基礎研究のほうに直接行こうと思っていましたから、臨床での希望先がなかった。

———つまり、麻酔科に入局する人がいなかった。

当時、麻酔科の講師をされていたのが西野卓(たかし)先生という山中寮OBの先生です。西野先生はアメリカの医師免許を取って麻酔医として渡米し、さらに呼吸生理学でカナダにも留学経験のある先生ですが、彼に「基礎は雰囲気が暗いぞ。しかも麻酔科は臨床と基礎と両方できるぞ」と勧誘されて、麻酔科に入ったというわけです。

———西野先生の話の通り、臨床と基礎研究の両方ができましたか?

大学卒業後、臨床にいたのは4年間です。1年目は千葉大で、2年目は東京厚生年金病院(現・JCHO東京新宿メディカルセンター)、3年目は国保松戸市立病院(現・松戸市立総合医療センター)、4年目に千葉県がんセンター、5年目に大学に戻るんですけど、その間に硬膜外麻酔についての研究をやって、それがぼくの初めての英語の論文でした。