公益財団法人テルモ生命科学振興財団

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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

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アメリカと日本の「違い」にとまどう

———小さいころはどこで過ごしましたか?

父が商社勤務で、生まれたのは千葉県ですが、生後半年から2歳まではリビアで、小学1年生の途中から中学2年の直前まで、アメリカのニューヨークやアトランタで過ごしました。小学校時代は、日本人学校ではなく現地校に通いました。子供ですから慣れるのは早く、英語が話せない中で、気がついたら現地の子とも普通に遊んでいました。

———子供のころの将来の夢は?

小学校のときはクラリネット奏者になりたかったんです。「オペラ座の怪人」のミュージカルを見て感激し、これを素晴らしいものにしているのはオーケストラだと思って、なかでもクラリネットが大好きになりました。 社会の授業で、「自分の将来なりたい職業の人に手紙を書く」という課題があったんです。電話帳で5人ぐらいのクラリネット奏者をリストアップして、月収はいくらかとか家族を養っていけるかを質問したところ、皆、クラリネットだけでは難しい、何ヶ所かのオーケストラを掛け持ちするとか、複数の楽器がこなせなくてはいけない、しかもトップレベルの奏者でなくてはならないという返事。そうか、クラリネット1本では生きていけないのかと…。

———得意な学科はありましたか?

それが、日本とは授業のやり方が違うから、得意科目とか不得意科目とかというとらえ方そのものがなかったですね。たとえば、アメリカの歴史とか国語の授業って、たいていプレゼンテーションなんです。歴史の授業だと、歴史上の人物について自分で調べて、クラスのみんなの前でプレゼンしたり、同じテーマで調べている何人かと寸劇をやったりする。そこで問われるのは歴史上の出来事や年代を覚えたりするというより、調べる力とかプレゼン力、あるいは調べたことについてどう考えるかなんです。
とはいえ、英語ができなかったときは、プレゼンがいやでしたね。だから、最初に手を挙げることにしました。アメリカ人でも最初にやるのは躊躇するんです。でも、考えてみたら一番ほどハードルが低いときってない。そのうえ、一番にやったということで評価もしてもらえる。私はみんなよりはどうしても拙い英語なので、さっさと終わらせて、とにかく一番にやったことを評価してもらおうと、積極的に一番乗りをしました。

小学校で歴史上の人物を演じたときは、ポカホンタスに扮した(左)

同じく小学校時代(左から2人目)

———中学校の途中で帰国されて、すぐに馴染めましたか?

中高一貫校に編入したのですが、みんな同じ制服を着て、肌の色や髪の色が一緒で見分けがつかなくて、はじめは名前を覚えるのも大変でした。やはりすぐには馴染めず、当初は、「自分にはニューヨークのときの友だちがいるから日本で友だちができなくてもいいや」と思いながら過ごしていたんですが、やがて仲のいい友だちができて、充実した学校生活が送れるようになりました。

———授業で困ることはありませんでしたか?

漢字がすごく苦手でしたね。アメリカにいたときは、現地校に通う子を対象に土曜日に開校される「日本語補習校」で日本語を勉強して、それとは別に最後の1、2年間は塾にも通ったんですが、漢字は苦手なまま。国語の授業で音読を指名されると、平仮名だけ私が読んで、まごついていると先生が漢字の部分を読んでくれるといった状態でした。
それと、試験のために何かを覚えるということを日本の学校で初めて知りました。アメリカでは試験のときも多くの教科で教科書が持ち込めて、しかも、試験問題のほとんどがエッセーなんですね。だから記憶する必要がなかった。ところが、日本のテストだと覚えているかどうかを問われるものが多く、試験の問題を見て「あーっ、こういうことを覚えなきゃいけなかったんだ!」と気づいたものの、ときすでに遅しで、成績は悪かったですね。だから中・高校時代は落ちこぼれてました(笑)。

———苦手な漢字をどうやって克服したのでしょう?

このレベルまではちゃんとできるという指標がないと、いつまで経ってもコンプレックスを克服できないと思ったので、漢検の高校生レベルを取りました。それと、本をたくさん読みましたね。

———好きな作家はいますか?

ハマったのが村上春樹さんです。その後も高校、大学と彼の本を読み続けました。中でも大好きなのが『カンガルー日和』という短編小説集の中にある『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』という短編です。自分にとって100パーセントの相手だと思える運命の人に出会ったと感じたら、そのときに話しかけないとダメだということをその本から教えられ、「ここだ」と思ったらそのチャンスを逃さない生き方をしようと思うようになりました。

———部活には所属しましたか?

先ほどお話したようにクラリネットが大好きでしたから、中学の部活も、転入当初は吹奏楽部に入ったのですが、転入生だったことや先輩後輩の文化にも戸惑い、なんとなく数日で足が遠のいてしました。そんなときにクラスの子から誘われたのがバスケットボール部。アメリカから来た子だからさぞうまいだろうと思われていたようなんですが、バスケなんかやったことがなくて、ボールを持って走ったら、先輩から「星野さーん、ボールはドリブルで!」と言われたりして(笑)。
でも、バスケはとても楽しくて、そこで出会ったバスケ部の仲間とは今でも仲がよく、結局、高校、大学、大学院、ポスドクでアメリカに行ったときも含めてバスケを続けています。