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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

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がんの転移にねらいを定める

———博士号を取得して、ポスドク先はどのようにして選びましたか?

「君の研究で、何人のがんの患者さんが救えるの?」と聞かれたのが、ちょうどポスドク先を選ばなければいけない時期が近づいているころでした。今の医療では救えないがんの患者さんを救うため、ライフワークとしてがん研究をしていく中で、どういうスタンスで研究をしていこうかと考えていたときに思い当たったのが、がんの転移ということでした。

———がんの転移というのは、がん細胞が最初に発生した場所から血液やリンパ液の流れに乗って別の臓器や器官に移動し、そこで増殖するようになることですね?

がんは、「原発」といって、最初に発生した場所(部位)だけにとどまっているものは治ることが多く、たとえば乳がんの場合、原発がんの患者さんの5年生存率は2018年では98.1%と非常に高い確率です。ところが、ほかの組織や臓器への転移があると生存率は低くなり、乳がんの患者さんで遠隔転移がある場合、2018年の統計では5年生存率は33.8%と低くなってしまいます。ほかのがんの患者さんを含めても、がんで死亡する患者さんの9割は、転移によるものといわれています。だから転移を防ぐことが、がんで人が死なない治療法だと考えたのです。そんなとき、ユニークな説に出合いました。

———それはどんな説ですか?

コーネル大学のデイビッド・ライデン先生が提唱していたもので、がんは転移する前に転移先が決まっていて、そこは転移しやすいようにがん細胞の到着前に臓器の環境が“耕されている”という「前転移ニッチ」の仮説です。
大学院1年の2006年11月に、東京で高松宮妃癌研究基金の国際シンポジウムが「がんと微小環境」をテーマに開催されたとき、アメリカからライデン先生も招かれて出席していました。私みたいな学生が入れるような会じゃないんですけど、たまたま私の教授だった落合先生がその年のシンポジウムの世話人をしていた関係で、ベル係とか名札を渡す係としてもぐり込むことができ、ライデン先生の発表を聞いて「これはおもしろい!」と思ったんです。

———ライデン先生とは直接、話もされたんですか?

一般に公開しないクローズドのシンポジウムなので、人もそんなに多くなかったし、そのころライデン先生はまだ若手の准教授で、2005年に「Nature」に論文を発表したもののそれほど大御所っていう感じではなかったんですよね。たまたま1人で立ってらっしゃる瞬間があって、これはチャンスだ、話しかけなきゃ、と思ったんですけど、気の利いたサイエンスの話なんかもちろんできないので、「ポスドクはどうやって選んでいますか?」と聞きにいきました。

———ライデン先生の答えは?

「すばらしい実績があったりするというのはもちろん目に留まるけど、でも、ぼくは一緒に研究がしたいと思える人かどうかを見る」とおっしゃってくれて、「君、ポスドク先を探しているの?」と聞かれました。「まだです」と答えると、「いつ卒業するの?」「4年後です」って言ったら「ずいぶん先だね」って驚かれて、でも、「がんばってね」みたいな感じだったんですよ。
それから1年に1回は必ずメールをしてコンタクトを取り続けました。そして、大学院博士課程の最終学年のとき、もう論文も完成し卒業できることがわかった時点で、留学生としてライデン先生のラボに行きました。先生は「待ってたよ」と言ってくださり、博士号を取得後に正式に博士研究員として採用されたわけなんです。

コーネル大学・ライデンラボの一員になったばかりのころ、ラボメンバーとともに(前列左から3人目)

———念願かなってのライデンラボでの研究ですね!

ところが、行ってみたらライデン先生のラボ、お金がまったくなくて、ものすごく貧乏だったんですよ。ラボで抗体1個買えない月があったりして、「今月は1人100ドルあげられます」とか言われるけど、100ドルといってもたかがしれている。しかも毎月じゃないので、次に100ドルを使えるのがいつになるかもわからない。そんな状態でした。

———えーっ?それは大変!なんでそんなにお金がなかったのですか?

ライデン先生は2005年に「Nature」に論文を出していて、その直後は大型の助成金がもらえていたんですが、その後エクソソームががん転移に関わる可能性について検討することに没頭していて、論文をピタリと出さなくなっていたんです。

———エクソソームってどんな物質なのか、教えてください。

30~150ナノメートル(ナノは10億分の1)のウイルスぐらいの微小胞で、見つかった当初は細胞が不要になったものを出す「ゴミ袋」と思われていました。ところが、2000年代に入ってから、エクソソーム内にタンパク質や“メッセージ物質”とされるマイクロRNAなどが含まれ、放出後に別の細胞に取り込まれて細胞間の情報伝達の役割を果たしている可能性が示され、エクソソームの働きを解明する研究が加速していたのです。

エクソソームの電子顕微鏡写真。矢印で指しているのがエクソソーム

エクソソーム内にはメッセンジャーRNAやマイクロRNAを含む核酸物質が含まれ、他の細胞へ受け渡されて細胞間コミュニケーションに重要な役割を果たしていることがわかってきた。

今お話ししたように、ライデン先生は、がんの転移にがん細胞のエクソソームが関わっている可能性について検証しており、その論文がいいところまで来ていましたが、前転移ニッチにエクソソームが関わるかについてはまだ検証していませんでした。
先生は、やってきたばかりの私にこうハッパをかけました。「がんの転移先に前転移ニッチができることはわかった。ぼくは、その引き金になるのはエクソソームだと思っているんだ。歩子やって!」

———ライデン先生ってどんな先生ですか?

彼はアイデアが降臨するタイプの人。でも、実際の研究については、あれこれ言わない。もともと小児腫瘍の医者で、研究よりも医者という立場の方が強い。だから実験したりするのはそれぞれの研究者に任せるというスタンスで、「歩子、よろしく!」という感じでした。

———いきなり重要な仕事を任されるようになって、大変じゃなかったですか?

大事なプロジェクトを任されたけど、まずは研究費の心配をしなくちゃいけない。でも5年間も論文を出してないラボに対してはどこも冷ややかなんですよ。「エクソソームがあったとしても、それが転移先の環境を変えたり、臓器の状態を変えたりするの?」とネガティブなことばかり言われて、補助金の申請書をいくら出してもまるで反応がない。
ポスドクになって半年ぐらい経ったときに、「3カ月後からはお給料が払えなくなります」って言われました。「しばらくの間はボランティアでやってくれないか、いつか返すから」と言うんですけど、それでは生きていけなくなっちゃいます。

———で、どうしました?

お給料が出なくなるまでにまだ3カ月間ある。その間に、がんの研究というこだわりは捨てて、自閉スペクトラム症とか心筋梗塞とか、出せる申請書を全部出そうということになりました。あらゆる細胞から放出されるエクソソームは、体内のさまざまな細胞の変化に関与していると思われますから、がん以外のほかの病気についても、エクソソームという切り口で解明していける可能性があります。手分けして、1カ月で20通ぐらい申請書を出しました。

———その結果は?

私が一番初めに書いたのが「自閉症とエクソソーム」というテーマで、私が出したものではこれが唯一採択されました。幸運にもコーネル大の医学部には自閉スペクトラム症の小児科があるし、研究を行っているラボもあったので、その人たちと一緒に研究したところ、すごくおもしろいデータが出てきました。それまでがんと健常者の間だけで比較していたけれど、違う疾患との関係を見るなかで多くの気づきがあって、今でも自閉スペクトラム症とエクソソームの関係は私のラボのテーマの一つとして研究を続けています。
貧乏のどん底だったのは私がラボに入ってからの1、2年間ぐらいで、その後、ほかの研究でもお金が入るようになってきました。そして、2015年に、私が筆頭著者でライデン先生が責任著者となって「Nature」にエクソソームと前転移ニッチに関する画期的な研究論文を発表できたのです。

ライデンラボでの研究風景

ライデンラボで行われた星野先生の送別会のひとコマ。左がライデン先生、女性3人はみなAssistant Professor(右から2人目)