ピアニストになる夢を諦め医師をめざす
———小さいころはどんなお子さんでしたか?
一人っ子で、まわりは大人ばかりの中で育ちました。体が弱くて、幼稚園や小学校のころはしょっちゅう熱を出していました。そのくせ自然や生き物が好きで、学校帰りに毎日、生き物を追いかけて寄り道をしていて、とっくに学校は終わっているはずなのにちっとも家に帰らないと親が心配する、そんな子供でした。
母親が学校に電話すると、「もう1時間以上前に帰りましたよ」と言われて、通学路を探しに行くと、お隣の家の庭の前で、アワアワとした綿菓子のような塊の中から何百匹もの赤ちゃんカマキリが出てくるのをじーっと見ていたり…。
コースはだいたい決まっていて、あそこでこれとこれを見て、次に川の中を見て、最終的に近くの家の犬をかまって、それから帰る1時間半ぐらいのコースでしたね(笑)。

初節句で祖母と
———子どものころの将来の夢は?
ピアニストになりたかったんです。ピアノは4歳ぐらいから始めて、すごく好きだったので身のほど知らずにも「これで食べていけたらいいな」と音大受験のための個人レッスンに通っていて、家でも毎日3、4時間はピアノを弾いていました。学校から家に帰るまでに1時間半、帰ってからピアノを弾いて、おなかが空くとご飯を食べて、疲れて寝る。小学校のときはそんな毎日でしたね。
———中学・高校時代はいかがでしたか?
神戸女学院という中高一貫の学校に入りました。女の子が150人ぐらい。みんなすごく元気で仲が良くて、附属の大学に行くことが奨励されていたので、6年間、本と映画と絵とピアノ三昧の生活を送りました。
———本はどんな本を?
中学生のときは、森鷗外とか三島由紀夫。高校では文芸部に入ってへたくそな文章を書いていました。山崎正和が大好きで、『鷗外 闘う家長』から始まってずっと読んでいました。
映画は、アニメも含めて何でも片っ端から観に行きましたが、いろいろ観ていくうちに夢中になったのが自主上映の映画でした。「ぴあ」という情報誌に、いろいろな自主上映の予定が載っていて、おもしろそうなのをやっているのが京都なんですよ。だから土日は京都に行って、ヴィスコンティとかタルコフスキーの映像の美しさに浸っていました。
———自主上映というと、ミニシアターみたいなものですか?
自主上映をよく開催していたのは京都の大学生たちで、喫茶店や画廊の一室などで上映していました。白いシーツをかけてそこに8㎜で映すので、冷房の風でシーツがひらひらっと動いたりして映画を鑑賞する環境としてはすごく悪いんですが、それもまたおもしろくて…。何度も通ううち、京都という街が好きになりました。画廊だとか骨董屋さんを覗くと、高校生で買えるはずもないのに店の人が一生懸命教えてくれて、いい街だなぁと。
———絵もお好きだったんですね?
絵は、習いに行ってました。神戸の異人館ばかりを描いて「異人館の画家」として知られていた洋画家の小松益喜さんのアトリエに通って、美大をめざす人たちと一緒に描いていました。
———うかがっていると文学少女といった感じですが、学校の教科で得意・不得意はありましたか?
家庭科が苦手でした。家庭での役割分担という授業では、ちょっと違うんじゃないかと思ったり…。でも料理の実習は好きでしたよ。
英語に力を入れていた学校で、英語を話すことに抵抗がなくなったことはとても感謝しています。
———ピアニストになる夢はどうなったのでしょう?
音大に入るためにはコンクール歴も必要です。レッスンを受けている先生がいろいろなコンクールに出してくれるんですけど、いざ本番になると緊張してポカをしてしまい全然ダメ。そのとき思ったのは、勉強するほうがはるかに楽だなということです。勉強だったら試験中に考え直す時間があるけれど、ピアノは弾いてしまった音は取り戻すことができないので一発勝負。高校1年ぐらいのときに、自分には才能がないと諦めました。
———ピアニストの夢を諦めて、次の目標は?
何か資格がある仕事がいいと思い、法学部に進む道を考えたこともありましたが、結局、決めたのは医学部への進学でした。そのとき念頭にあったのが、幼いころのかかりつけ医だった石垣四郎先生のことです。石垣先生は京都大学医学部のご出身で、神戸市立中央市民病院の小児科の部長先生を勤められたのち神戸市で開業されていました。熱でどんなにしんどかったり、耳が痛くて機嫌が悪かったりしても、石垣先生の前に座って「きょうはどうしたの?」って聞かれるだけで、「何だったっけ?」というくらいすぐに調子がよくなりました。
———顔を見るだけでほっとするような先生だったんですね。
石垣先生の安心感は格別でした。実は石垣先生は私の祖母の兄と大学時代の学友で、互いに医者になるため切磋琢磨した仲だったそうで、かかりつけ医として石垣先生のところに行くようになったのも大伯父との縁からでした。
———お二人とも京都大学医学部ということは、柳田先生の大先輩だったわけですね。
大伯父は病理医で、第二次世界大戦で広島に原爆が投下されたとき、京大の病理学教室にいたそうです。被爆者を診療するとともに被爆の影響を明らかにする調査のため、京大で研究調査班が組織されて、大伯父もメンバーの一人として広島に赴きました。大伯父は体が弱かったので周囲は広島行きに反対したものの、「こんなときに病理医が行かなくてどうする」と出かけていったそうです。ところが、診療・調査に当たっていたさなかに西日本を襲った枕崎台風によって、滞在先の陸軍病院が山津波に襲われて、調査班のうち多くのメンバーが患者さんたちとともに犠牲となる惨事が起きてしまいました。大伯父も土砂に埋まって、一時意識がなくなるほどでしたが、そのときは何とか助かったそうです。でも、京都に帰ってからずっと調子が悪く、やがて若くして亡くなってしまいました。
———それは残念なことでしたね。
祖母からは、医者としての使命を果たそうとした大伯父の話をずっと聞かされて育ちました。私が石垣先生や大伯父のように医学部をめざしたいと言うと、祖母は我がことのように喜んでくれました。
———研究者になろうという気持ちはありませんでしたか?
当時はありませんでしたね。そのころ『北洋船団女ドクター航海記』というサケ・マスの北洋船団に初めて女性の船医として乗り組んだ麻酔科医師の航海記を読んで、医師になったあともいろいろな選択肢があるんだなと感銘を受けたのですが、当時は研究者という道があることなど、思いもよらなかったのです。