変わりつつあった腎臓病学を専門に
———京都大学医学部に入学して、どんな大学生活を送りましたか?
大学ではいろいろなことをやりたかったけれど、完全にインドアの人間なので、絶対やりたくなかったのが運動でした。ところが、新入生歓迎会で、速攻でつかまったのがテニス部だったんです。神戸女学院の先輩でもあった方に、今、テニスの女子部が存続の危機に陥っているのでぜひにと誘われました。「運動は一度もやったことがないので無理です」と断ったのですが、「いるだけでいい」ということで入部しました。でも、実際には試合に出ることになるし、その先輩がとても親切に朝練、夕練と教えてくださったのですが、運動神経が悪くてちっとも上手にならなくて、3年目か4年目で下級生が入ってきたこともあり辞めました。
———苦手なのによく3~4年も続きましたね!
下手くそなんですけど、先輩はみなさんやさしくて、楽しい時間を過ごせました。それにせっせと走り込みをやったおかげで体力がついたのも良かったですね。上下左右につながりが増えたのも幸いでした。その後もOB、OG戦があると出かけていったり、OBの先生のご教室で講演をさせていただいたり、共同研究に発展したりしたこともあります。

テニス部の仲間と(左から3人目)
———テニス以外では?
英語が好きだったのでESS(English Speaking Society)に入って英語でプレゼンテーションする大会に出ました。またせっかく京都に住んでいるのだからと、お華の嵯峨御流のお家元の奥様がお茶を教えていらっしゃるところに習いに行きました。お嬢様がたに混じって、「実習で遅れました!」なんて言いながら通っていたのですが、お家やお道具が素敵で、そして何よりも四季折々のお菓子とお茶がとても美味しかった!
あと他学部の講義も受けてみたいと、教育学部で教鞭を執っておられた河合隼雄先生の授業に潜り込んでいました。そこで他学部の友だちができて、美術部の人と仲良くなって、美術部展に行っては「これいい!」と好きになった絵を何枚もいただいたり。いろいろな人と出会えるのは、やはり総合大学の良さですね。

初釜に臨む
———医学部の授業はいかがでしたか?
今はそうでもなくなってきていますけど、京大の先生って教科書や授業のカリキュラムに沿った話というよりも、ご自分の研究の話をされるんですよね。海外のいろいろな国にフィールドワークで出かけていく病理の先生が、その土地の風土病の話をされたり、ノーベル生理学・医学賞を受賞された本庶佑先生の授業では本庶先生ご自身の研究の話を聞いたりと、とてもおもしろく、今にして思えば贅沢な時間を過ごすことができました。教科書は自分でしっかり読んでおけよ、ということだったんだろうと思います。
———腎臓を専門にしようと思われたのはなぜですか? 何かきっかけがあったのでしょうか?
大学にはバスで通っていたのですが、バス停でしょっちゅう出会う人がいました。いつも本を読んでいるので大学の先生かなと思っていたら、京都大学医学部の土井俊夫先生でした。土井先生は当時、アメリカの国立衛生研究所(NIH)から帰国して京大の老年医学講座(現在の高齢者医療ユニット)の講師になったばかりの新進気鋭の研究者で、ご専門が腎臓病学だったのです。
先生と知り合ってお話をうかがうと、私が習ったものと全然違っていたんです。私が習った腎臓病学というのは形態学で、腎生検で組織をとって、これはAという病気のパターンなのでこういう治療をしましょうということでしたが、土井先生が教えてくれる腎臓病学は、その形がどうしてできるのかのメカニズムだったのです。
———同じ腎臓病学でもかなり違っていたわけですね。
私が習ったことと、土井先生が教えてくれることにこんなにギャップがあるってどういうこと?と思いました。と同時に、私にとってはチャンスだとも考えました。
———どういうことですか?
おそらく腎臓病学は今、大きく発展しているんだろうと思ったんです。今まさに発展し、変わりつつある学問は、まだやっている人も少ないだろうし、やりがいが大きい。そして(今にして思えば厚かましいのですが)自分の発見が病気の治療に寄与できるチャンスもあるかもしれないと思ったのです。
もうひとつ、「New England Journal of Medicine」誌に掲載された症例を読み解いていくという、老年医学講座の先生方の勉強会に参加させていただいたのもきっかけになりました。
———大学卒業後は、そのまま大学院に進学するのではなく、研修医として臨床の現場につきますね。
当時は研究よりも臨床をやろうと思っていたので、京大附属病院で1年、翌年からは兵庫県立尼崎病院に2年いて、研修医として患者さんの診療に当たりました。
———印象に残っていることがありますか?
研修医になったばかりの1年目に、つらい症例を経験したことがあります。リンパ腫と骨髄異形成症候群を合併した患者さんが治療の甲斐なく亡くなられました。担当して初めて亡くなった患者さんだったので、ああすればよかったのではないか、こうすればよかったんじゃないかとずっと考えていたのですが、指導してくださった先生から「あとからきちんと振り返ることが大切だ」と諭されて、検証するうちに、リンパ腫と骨髄異形成症候群の稀な合併例であることがわかり、症例報告の論文にまとめることができました。ほかにも、突然片足だけスリッパが脱げるようになってしまったという患者さんが来られて、そこの神経だけに炎症が起こる血管炎だということがわかって論文として発表したのですが、一つひとつの症例を深く見ること、そして、自分の考えを論文として世の中に発信することの大切さを実感しました。
———2年目からの兵庫県立尼崎病院はいかがでしたか?
京大病院のときとは違って、たくさんの患者さんを一度に持って診療に当たる必要がありましたが、診ている患者さんすべてに良くなってもらうことを目標に勉強させていただき、とても良い経験になりました。
———充実した毎日を送っている中で、大学院に進もうと思ったのはなぜですか?
当時、県立尼崎病院の腎臓内科に金津和郎先生という部長先生がおられたのですが、患者さんに、「金津先生が外来で診てくれたら腎臓病が悪くならない」と有名だったんですよ。腎臓領域は当時は薬が少なくて、病気を悪くしないのがとても難しかった時代です。それなのに金津先生が診ると悪くならないのはなぜなんだろうと思って、先生の外来についていたのですが、わからない。でも悪くならないということは、治る可能性があるのではないか。その可能性を追い求めて、腎臓病の原因を明らかにして根本的な治療法を開発し、腎臓病を治る病気に変えたいと思い、大学院に進んだのです。

ポリクリ(医学部在学中に病院の各診療科を回って行われる臨床実習のこと)で一緒だったメンバーとともに(前列右端)