臨床に限界を感じ、基礎研究の道へ
———精神分析をやりたい一心で、臨床の道を選んだのですか?
そうです。他の臨床現場も回りましたが、精神科一択でした。ところが、卒業して附属病院の精神科に入局したら、憧れた精神分析の先生は留学していなくなっていました。ショックでしたが、気を取り直して精神医学に真剣に取り組むことにしました。しかし、学ぶうちに精神分析自体、私には矛盾だらけの学問に見えて、また薬物療法や認知療法を中心とするスタンダードな精神医学も完璧ではないことに気づいてしまったんです。
———完璧ではないというのはどういうことですか?
治療を受けても完治しない患者さんがたくさんいたのです。なかでも自分たちの受け持った患者さんの自殺を防げなかったことは、私の人生の中でも非常に深刻な体験でした。もちろん、チームを組んで医療としては最善を尽くしました。それでも、一人の人間を救うことができなかったのです。
勉強するうちに分かったのですが、精神疾患の病態生理は未だに解明されていない部分が多く、医者にできることは限られています。だから、症状を和らげる薬はあっても、病気を根治させることは難しいのです。また、どんなに医療者が頑張っても自殺を完全に防ぐことはできない。その事実に大きな無力感を覚えて、臨床の現場は自分にはとても無理だと思いました。
———つらい体験でしたね。それで基礎研究に移ったのですか。
本当のことを言えば、ここでもなんの崇高な目的もなく、臨床をしたくないから大学院に入ったという感じです。しかし、研究を進める中で、精神科専門医としての経験を踏まえて、精神疾患を科学的に解明することで別の貢献ができるのではないかと思ったのです。大学院に入学し、研究をはじめたのが26歳ですから、研究者としては遅いスタートでした。
———大学院ではどの研究室に所属したのですか。
脳の作動原理を知りたい、異常の原因となる分子を特定して機能解析するような研究をしたいと漠然と考えていたのですが、当時の精神科でそういった研究をしている先生がいなかったので、いくつか紹介してもらった中から、シグナル伝達をテーマにしていた的崎尚(まとざき・たかし)先生の研究室を選びました。でも、そこで与えられたのは、さほど興味が湧かないテーマだったんです。
———いったいどんな研究テーマをもらったんですか?
マクロファージって聞いたことがありますか? 体に入り込んだ細菌やウイルスなどの病原体や腫瘍などの異常細胞を認識して排除する白血球の細胞です。マクロファージがどのように病原体を認識して食べてしまうのか。また貪食(どんしょく)機構をどのように制御しているのか? そういったシグナル調節をする候補タンパク質のひとつ、SIRPβ(サープ・ベータ)がどんな機能を果たすのかを調べるというテーマを与えられました。やってみたいと考えていた脳科学とは全然関係がないし、最初は泣く泣くマウスの血球細胞と格闘する毎日。学生時代、真面目に実験に取り組んでいなかったこともあり苦労をしました。
———不本意な実験で、嫌になりませんでしたか。
それでも一生懸命に実験に取り組んで成果が出ればすごくうれしい。仮説を立てて実験し、それが「正しい」と確認できると、万能感でドーパミンが大量に放出されるんです。その快感にはまってしまい、博士課程の終わるころには研究者になろうかなと考えましたが、まだ漠然としていました。