公益財団法人テルモ生命科学振興財団

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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

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都心の学校でのびのび育つ

———出身はどちらですか。

生まれも育ちも東京です。学校が多い文京区の茗荷谷(みょうがだに)で育ちました。都心だけど小学校の敷地内には森があって、外遊びをいっぱいしました。国立小学校で遠くから通う子が多かったので、遊ぶのはもっぱら学校です。秘密基地を作ったり、虫を捕ったり自由にのびのびと遊んでいました。

———そのころから生き物が好きだった?

家族でよく伊豆に行き、磯で捕った生き物を水槽で飼っていました。魚が死んでしまうと、父と解剖するんです。父は医者で、一緒に顕微鏡をのぞいて「どうして死んじゃったんだろう」、「組織はどうなっているんだろう」と観察もしました。もちろんそのあとは、ちゃんとお墓を作って埋めてあげましたよ。

———小さいときから、研究者みたいですね!

父が医者だった影響で、たまにステーキなんかを食べると「ナイフとフォーク、逆の時間」って、途中で左右を持ち替えさせられるんですよ。おかげで手先は器用です。左手も右手と同じぐらい使えるようになりました。

———学校の授業やクラブ活動はどうでしたか。

小学校では1日1時間、自由な時間がありました。クラスの中から学習リーダーを選んでその子に授業をさせて、先生は児童と一緒に、その子の授業に参加するんです。図画工作もおもしろかったなぁ。ブロックの人形を自作のパラシュートにつけて、落ちてくるまでの時間が、誰がいちばん長いかを1学期かけて競争したりするんです。筋トレを続けて誰よりも高く投げる子とか、パラシュートの構造や材質を工夫する子とか、いろいろなアイデアが出てきましたね。社会科では好きな歴史上の人物をこれまた1学期にわたって調べて発表したり。ぼくは近松門左衛門を選びました。

クラブ活動は、4年生のときに入ったパソコン部が楽しかったですね。自分でプログラミングしてゲームを作るんです。使ったのは学校のPC9800シリーズ*。まだフロッピーディスクの時代です。みんなで相談しながら、ゲームのキャラクターの動きを変えたりして遊んでいました。

*PC9800シリーズ:1982年からNECが販売していたパソコンで、1987年には出荷台数が100万台を超え、16ビットパソコンでの市場シェアは90%を超えるなど、パソコン市場でトップの座に君臨。その後、次第にシェアを落としWindows95の登場等も相まって2003年に出荷停止。

———すごく自由な環境で育ったのですね。

中学も、中高一貫校でめちゃくちゃ自由でした。制服もなく、みんなでカラオケに行ったり、いろいろ遊んでいましたし、学校の授業もとても自由で魅力的なものばかりでした。

高校生時代。文化祭で喫茶店を運営した。

———大好きだった生物とのつきあいはどうなりましたか?

通っていた中学校はできる子が集まる半面、入学後に自信をなくす子も多かったんです。以前は優秀だったはずが、平均点の存在になっちゃうから。でも、なんとか自分の得意分野を見つけて、そこで一目置かれる存在になろうと頑張るわけです。ぼくは高校に進むころにはすっかり生物オタクで、期末試験では自作のノートが学年中を回るほどでした。
そして、高校1年から3年まで担任だった生物の先生に出会ったことが、その後のぼくの人生を決定づけました。「おまえはこれを読め」と言って渡されたのが、世界中で読まれている分子生物学のバイブルというべき『Molecular Biology of the Cell』の日本語版。うれしくて放課後はコーヒーショップが閉店するまでずっとその本を読んでいました。こんな世界があるんだって本当に夢中になりました。
3年の授業は、先生がピックアップした30本の英語の論文の中から好きなものを選んで発表するというもの。ぼくが選んだのは、匂いがどうやって認識されるかというリチャード・アクセル*(Richard Axel)博士の論文です。英語は苦手で苦労しましたが、その論文で数年後にノーベル賞を取ったときは驚きましたね。

*リチャード・アクセル博士:アメリカ合衆国の神経科学者、医学博士。コロンビア大学教授。匂いの受容体遺伝子の発見と嗅覚感覚の分子メカニズムの解明で、米フレッド・ハッチンソンがん研究センターのリンダ・バック(Linda Buck)博士とともに、2004年度のノーベル生理学医学賞を受賞。