遺伝子同定でコロンビア大に先を越される
———研究は白血病からスタートしたのですか。
晴れて血液内科学を専門として第三内科に入局し、指導いただいた平井久丸(ひらい・ひさまる)先生から与えられた仕事は、トリ肉腫のウイルスの遺伝子をマウスで増やして解析することでした。当時のがん研究の大きなテーマの一つに、シグナル伝達機構が発がんにどのように関与しているかの謎を解明することがありました。しかし、私がクローニングを命じられた遺伝子の異常がヒトの発がんに関わっている証拠はなく、駆け出しだった私は、ヒトの病気を解明したいのにトリ肉腫の研究なんて遠回りだと思っていました。いま思えば、基本的な分子生物学の技術のいいトレーニングになったし、後に発がんのしくみを遺伝子から理解する上でも貴重な経験でした。
———分子生物学の技術を磨いて、いよいよ本格的に研究を始めたわけですね。
マウスと格闘するうちに、多くのがんで異常が見られる9番染色体のp16というがんを抑制する遺伝子に変異が見られるという論文がNatureに出ました。1994年のことです。さらに、この変異をヒトの白血病で調べると、やはり異常があった。私はこうした直接ヒトの病気と関わる研究がやりたかったのです。そこで、染色体異常とがんをテーマにした研究がしたいと先生に申し出て研究を始めました。
———いったいどんな研究ですか?
Natureの論文では9番染色体を調べていたので、やはりヒトのがんで多く異常が見られる6番染色体を調べようと考えました。ところが、研究の視点はよかったものの、私と助手の2人でできるような話ではなかった。
ヒトの全ゲノムを解析しようというヒトゲノム計画は始まったばかりで、次世代シークエンサー*もない時代です。遺伝子解析のスピードは現在の100万分の1程度。気の遠くなるような作業を繰り返し、3年かけて何とか一つの遺伝子にたどり着いたのですが、そうこうするうちにニューヨークのコロンビア大学から先に論文が出てしまいました。リンパ腫の権威が率いるチームで、かなうわけがなかったのですが、悔しい思いをしました。
*次世代シークエンサー: DNA断片を1つずつ読んでいた従来の方法(サンガー法)に対し、何億ものDNA断片を同時に読むことができる強力なDNA解析装置。
———当時、ゲノム解析でがんの原因を探る研究はどんな状況にあったのですか?
日本でも意欲的に取り組んでいる人はいましたが、まだまだ時期尚早だったといえます。腫瘍ウイルスと遺伝子の研究で1975年にノーベル賞をとったレナート・ダルベッコ(Renato Dulbecco)は1986年に「細胞のゲノムを調べることが重要だ」と言いましたが、当時は遺伝子を300塩基対調べるのでさえ1カ月近くかかっていて、ヒトゲノム30億塩基対を調べるなんて雲をつかむような話でした。しかし、彼の言葉を実現しようとヒトゲノムプロジェクトが始まり、世界中の研究者たちが初代のシークエンサーを何千台も使って2003年に全ヒトゲノムを解読したわけです。ちなみに当時の技術では全ヒトゲノムの解読に3年以上を要しましたが、次世代シークエンサーでは6日程度、そして現在の第3世代といわれる最新型シークエンサーでは数分で解読ができるようになっています。
———先生が研究を始めたころは、ゲノムの解析が非常に大変な時代だったんですね。
がん細胞で生じる遺伝子の変異についても、当時主流だったマイクロアレイ方式**による解析では、なかなか成果が出ていなかった。ところが、大量の塩基配列を半自動化で均一に並べられる新型マイクロアレイの登場によって、革命的にデータが安定したんです。そこで、われわれもそれを導入して研究を進めることにしました。
**マイクロアレイ方式:網羅的に遺伝子の発現量を解析するツール。細胞からmRNAを取り出してスライドガラスに載せ、各遺伝子の塩基配列にmRNAが結合した数をはかることで遺伝子の発現量、すなわちおおよそのタンパク質発現量をはかる。