細胞どうしのコミュニケーションが、がんを抑制!?
———学位取得後、アメリカのイェール大学に留学します。イェール大を選んだのはなぜですか。
Eigerを発見して以来、まだまだわからないことだらけの細胞間の相互作用を、ハエを使って研究したいと考えるようになりました。イェール大学には、それができる画期的な手法「モザイク解析法」を開発した研究者がいたんです。ティアン・シュー(Tian Xu)という中国人の若い研究者です。
———「モザイク解析法」について教えてください。
個体の組織中に遺伝的に異なる細胞のクローンをモザイク状に誘導して、そのふるまいを蛍光標識などで追跡する方法です。こうしたモザイクがX線照射などによる突然変異で起きることは知られていましたが、ティアンが体細胞組み換えの原理を利用して1995年に開発した技術によって、人為的に制御できるようになったのです。
ティアンにメールを出したところ、「君の論文を全部読んだ。これからやりたい研究が君の専門にピッタリだから、ぜひ手伝ってほしい」と熱心に誘われたんです。じつは、ハーバードやバークレーの有名な研究室からも良い返事をもらっていたのですが、これほど請われるならと彼の研究室に行くことにしました。

イェール時代(前列左)。前列右がティアン。
———具体的には、どんな研究をしたのでしょう。
ショウジョウバエを使ったがんの悪性化メカニズムの解析です。がんの多くは臓器の表面にある上皮細胞から生まれますが、正常な上皮細胞は決まった方向性を保って並んでいて、これを「細胞極性」といいます。細胞ががん化すると細胞極性が崩壊して増殖しやすくなり、がん化が進み悪性化します。その現象に関わるメカニズムを調べたのです。

細胞極性が崩壊すると、細胞は過剰に増殖してがん化する。
ところが、調べるうちに妙な現象に気がつきました。上皮組織中のすべての細胞の極性が崩壊すると腫瘍化するのですが、「モザイク解析法」を使って上皮組織の一部だけに極性崩壊した細胞を誘導すると、なぜか細胞死を起こして消えてしまうのです。極性崩壊した細胞はがん化する力があるのに、正常細胞に囲まれるとがん化せず排除されてしまう。不思議に思って細胞集団の動きをさらに調べると、その現象にEigerが細胞死を起こすときと同じJNKシグナルが関わっていることがわかりました。
「Eigerが細胞死を引き起こしたのでは?」。そう思ってEiger遺伝子のないハエをつくり極性崩壊した細胞を誘導すると、狙い通り、細胞は排除されず腫瘍化しました。

正常組織(黒)に囲まれた極性遺伝子が変異した細胞(緑)は細胞死を起こしてショウジョウバエ上皮組織(翅原基[はねげんき]; 将来成虫の翅となる細胞集団をいう)から排除されるが、Eigerを欠損した翅原基(下段)では排除されず、過剰に増殖して腫瘍化する。
———なんと、役割が不明だったEigerが関わっていたのですね。
Eigerは普段は何もしませんが、がん化するような危険な細胞が生まれるとそれを細胞死させて除去していたのです。Eigerを発見して以来、JNKが関わる細胞死に出合うとEigerの関与を調べるのが習慣になっていたのですが、それが実を結ぶ形となりました。
さらにその後、組織中の変異細胞の存在を細胞内シグナルやタンパク質の相互作用によって感知するメカニズムがあることもわかりました。個々では特殊な力をもたない普通の細胞なのに、細胞集団となると、相互コミュニケーションによって自らの危険を排除していたのです。
このような細胞間の相互作用は「細胞競合」と呼ばれ、その現象が1975年に論文で報告されて以降、詳細な役割は不明なままでした。私の研究で、細胞競合ががんの抑制に関わっていることがわかったのです。細胞競合現象の発見者であるスペインのヒネス・モラタ(Ginés Morata)博士がこの発見をすごく喜んでくれたのがとても嬉しかったです。

極性が崩壊した細胞はがん化するポテンシャルを持っている(左)が、野生型細胞(正常細胞)に囲まれると細胞競合によって排除される(右)。
これを機に、独立して自分で細胞競合の研究を進めたいという思いが強くなりました。ティアンからはアメリカでの独立を勧められましたが、幸運にも先に日本での独立ポジションを見つけることができました。アメリカ留学の4年間で築いた研究者ネットワークに未練もありましたが、帰国して研究室を主宰することを決めました。

イェール留学時代。ハエ部屋にて。