スイスでPI(研究室主宰者)として独立
———2年後にはスイスに戻り、独立して研究を始めます。
ジュネーブ大学で研究室を立ち上げました。ところが、戻ってすぐに結婚して子供も2人産まれて、しばらくは記憶がないほど忙しかったんです。夫も研究成果をもとに起業したばかりで、ベビーシッターを頼んで何とかやっていました。
———出産で研究をやめようとは思わなかったんですか?
まったく思いませんでした。人それぞれだとは思いますが、私は独立してから産んだので、休みも自分で決められたし、休んでも学生がいるので研究が止まることはない。加えて、苦労してここまできて辞めるわけにはいかないという気持ちも強かったのです。

研究室を立ち上げ、初代学生さんたちとハイキング
———おもな研究テーマについて教えてください。
研究室を主宰するからには、オリジナルなテーマが必要です。私が研究してきた生体膜は体の外から来る光や音、外敵などの情報を電気信号や化学信号に変換することで細胞内に伝達していて、「情報のハブ」ともいうべき存在です。主成分は、二重層をつくっている脂質と、物質の輸送やシグナル伝達に関わる膜タンパク質。まだわかっていないことも多いので、この生体膜の機能を、脂質を中心に生物物理と工学を融合させて調べることにしました。
新たなテーマとして掲げたのが、力を加えると色が変化したり発光したりする「メカノクロミックポリマー」の研究です。脂質の種類によっては、紫外線をあてるとポリマーになるものがあるのですが、そのポリマーに刺激を加えると色が変わるという論文を読んで興味をもちました。これをバイオセンサーに応用できないかというわけです。
———力によって色が変わるバイオセンサーの開発ですね。
ただ、その論文にはどの程度の力でどのぐらい色が変わるのかといったデータはありませんでした。なので、加える力と発光の相関を定量的に調べようと考えたんです。それがわかれば、発光を見ただけで加圧量がわかるセンサーとして使えます。でも、実際に分子レベルの力を計測するのはかなり大変でした。結局、力の向きと強さをナノスケールで加圧できる「ナノ摩擦力顕微鏡」と、ポリマーを押したときの発光を可視化できる「蛍光顕微鏡」を組み合わせた装置を独自に開発して計測できるようにしました。これを使えば、膜タンパク質と脂質分子の力学的な相互作用が分析できますし、それ以外にもさまざまに応用できます。この研究は現在も継続中です。
———創薬につながる研究にも取り組んでいるそうですね。
「抗菌ペプチド」の研究です。抗菌ペプチドはイオンチャネルと同様に細胞内のイオン濃度を調節する作用があって、博士時代は細胞膜にイオンチャネルを組み込む実験のテスト用に抗菌ペプチドを代用していたんです。そのころから抗菌ペプチドの特性に興味があったので、改めて自分のチームで抗菌ペプチドを創薬に応用する研究にじっくり取り組みたいと考えました。
———抗菌ペプチドのメリットはどんなところにありますか。
近年、抗生物質が効かない「薬剤耐性菌」が増えていて、世界中で多くの人が亡くなっています。抗生物質の多くは細菌の細胞膜のタンパク質を破壊しますが、タンパク質は突然変異が起こりやすく、すぐに抗生物質が効かない薬剤耐性菌になってしまう。そこで代わりとなる薬がさかんに研究されていますが、その1つが抗菌ペプチドです。
抗菌ペプチドは免疫がつくり出す天然の抗生物質で、細菌の細胞膜(脂質二重膜)に穴を開けて破壊します。DNAに直接組み込まれていない脂質分子がターゲットなので、突然変異も起きにくく耐性もつきにくいことから注目されているわけです。
ただし、脂質は人間の体にもあるので、細菌の脂質二重膜を壊そうとするとヒトの脂質二重膜も壊してしまう。細菌の細胞膜だけを壊すという選択性を持たせるのがむずかしかったのです。
———副作用がない、安全な抗菌ペプチドが求められているのですね。
そのころ、ある2種類の抗菌ペプチドを混ぜ合わせると抗菌効果が上がるという論文を読みました。その実験結果に興味をもち、まず論文の再現実験をしてみました。ところが細胞膜に穴が開かないんです。実験が悪いのか論文が間違っているのか試行錯誤した結果、その現象は細胞膜の脂質に依存することがわかりました。
———脂質に依存するとは…?
細菌の細胞膜とヒトの細胞膜は脂質の成分がわずかに違っていて、私たちが実験で使った合成膜はヒトに近かった。だから穴が開かなかったんです。つまり、その2種類の組み合わせは、細菌の細胞膜は攻撃するけれど、ヒトの細胞膜は攻撃しない2つの効果をもっていたんです。この理由がわかるまで、さまざまな手法で検証を行い10年もかかりました。現在は、私たちが発見した2つの相反する効果を「ダブル協奏効果」と名づけて、創薬への応用をめざして引き続き研究を続けています。

Langmuir 2023, 39, 24, 8441-8449
ダブル協奏効果のイメージ。代表的な抗菌ペプチドの LL-37、 HNP1を混合して添加した場合には、ヒトの脂質二重膜には穴をあけないが(右上)、細菌の脂質二重膜は破壊する(右下)。
POPC:ヒトを模した人工的な脂質二重膜。POPCはヒトの細胞膜の主要な構成成分であるリン脂質の一種であるホスファチジルコリンの略称。
POPE/POPG/CL:細菌の細胞膜を模した脂質二重膜。POPE/POPG/CLは細菌の細胞膜を構成する主要なリン脂質の種類。