とにかく科学者になりたかった子供時代
———小さいころはどんな子供でしたか?
横浜市金沢区の団地で高校時代まで育ちました。ブルドーザーで造成中の、まばらに木が残っていたことから"歯ブラシ山"と呼ばれていた丘や、かつては海岸線で埋め立てられて大きな池のようになった「ふなだまり」で虫や魚を捕ったり、友だちと鬼ごっこで遊んだり、駄菓子屋に入り浸ったり。ギリギリ"昭和の子供"って感じでしたね。そのころから『Dr.スランプ』*の則巻博士みたいな"マッド・サイエンティスト"になりたかった。浮世離れしていて楽しそうに見えたんだと思います。勉強は理数系科目以外は全部ダメで、なんとなく人とズレている自覚もあり、科学者になるしかないと半ば思い込んでいました。
*Dr.スランプ:「週刊少年ジャンプ」に連載された鳥山明の漫画。発明家である則巻千兵衛(のりまき・せんべえ)が作った人間型ロボット・則巻アラレが主人公で、ペンギン村の住民たちとのハチャメチャなストーリーが人気を呼び、テレビアニメにもなった。
———得意なスポーツや趣味はありましたか。
スポーツは嫌いじゃないけど厳しいのはイヤ。中学では「ゆるそうだ」と考えて友だちと卓球部に入りました。ところが練習はハードで、しぶしぶ頑張っていたら団体戦では県で上位に入るところまでいきました。でも、一番うまかった友だちが引っ越ししてしまって、勝てなくなりましたけど。

試合後、卓球部の仲間とともに(一番右)。ファンキーなユニフォームは某N君の強い希望で決まったものの、その後すぐに本人は辞めてしまいました。
———高校生活はどのように過ごしましたか。
高校は公立で、進学校でもランクとしては下のほう。中学の担任に勧められるがままに受けたんですが、入学時の成績はトップだったらしいです。ところが、電車賃分を小遣いにしようと自転車通学を始めたら、気づけば途中のゲームセンターで日々、対戦型格闘ゲームの『ストリートファイター』に熱中することに。成績もあっという間に下から数えたほうが早くなって、教育熱心だった母にも呆れられて「もう元気に好きに生きてくれればいいよ」と言われるほどの、親不孝な高校生でしたね。

高校2年のとき、姉の下宿先に遊びに行った際のもの。別に人形好きではありません。
———成績が急降下! 大学受験はだいじょうぶでしたか?
ダメですね。受験勉強を始めたころにはこれは間に合わないと察し、全滅でした。しかたなく駿台予備校に入って成績は上がりましたが、やっぱり文系の科目は厳しくて、理数系で満点をねらう作戦で、無事、東京理科大に受かりました。
———合格できて良かったです。大学生活はいかがでしたか?
入ってみたら、理科大は留年が当たり前で、少しサボるとどんどん落とされるんです。だから、学科の仲間たちと深夜のファミレスで勉強したりレポートを書いたり、意外としっかり勉強しましたよ。もっとも、いつも誰かは途中で脱落してビールを飲み始めるのが恒例でした。長い休みには、某パン工場のバイトでお金を貯めては、友達と自転車で四国1周なんかもしました。

野田キャンパスに隣接する利根運河を背景に。バイトで疲れた後に、運河が見えるとホッとして、疲れを癒してくれました。
———応用生物学科を選んだのはなぜですか。
生物に関わる学科なら何でもよかったんです。大学には細菌から植物、動物系までいろんな生物の先生がいて、授業はどれもおもしろかった。
———研究室はどこを選びましたか。
ちょうど就職の氷河期のまっただなかで就職は念頭になく、夢だった科学者になるために博士課程に進むつもりだったのですが、第1希望の研究室は成績順で落ちてしまい、第2希望の恒松泰彦(つねまつ・やすひこ)先生の発生学の研究室に進みました。発生生物学の講義で、カエル胚の初期発生でかたちづくりを担う司令塔のような存在の「オーガナイザー」についての話がとてもおもしろかったんです。ところが、最初に先生から言われたのは、「ぼくは講師だから、ここで博士は取れないし、研究には向き不向きがあるから早々に進路を決めるべきじゃない」と。博士に進まないと生きていけないと考えていたので「人生終わっちゃった」と思いましたが、軟骨細胞の分化誘導実験を一生懸命やっていたら「お前だったら大丈夫かな」と言われました。とにかく素質は認めてもらえ、国立遺伝学研究所を紹介してくれました。修士時代は、「外研」といって、理科大に籍を置いたまま遺伝研で研究をしたんです。