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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

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吸血に興味を持ち、蚊の研究へ

———2015年に慈恵医大へ移られたのは何かきっかけがあったのでしょうか?

それまで神経がどう形づくられていくかを研究してきたわけです。すると、遺伝子によって精巧につくられた神経回路がどのように機能しているのか、つまり行動につながっているのかが知りたくなりました。でも、ショウジョウバエの行動研究が一世を風靡しはじめた時代で、小さいときから人と同じことはやりたくない性分の私は、ショウジョウバエ以外のものでやりたい、という気持ちが出てきたんですね。そんなとき、三浦研の先輩である嘉糠洋陸(かぬか・ひろたか)先生*に次のテーマを探していると相談したら、「蚊で神経研究をまたしようと思っていたところなんだ。吸血する虫っておもしろいよ」と言っていただきました。嘉糠先生は、慈恵会医科大学熱帯医学講座で蚊やマダニの研究をなさっています。先生のひとことで、吸血という行動にすごく興味が湧いたんです。

*嘉糠洋陸先生の記事をあわせてご覧ください。
この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」
第32回「蚊やマダニなど、病原体を媒介する節足動物の研究に挑む」

———蚊というより、吸血という行動に興味を持った?

自分と違う生物の血を吸うって、大きな危険を冒すわけですよ。しかも、蚊はたった2分で自分の体重が2倍以上になるくらいの血を吸うんです。ちなみにマダニはもっと大量に吸うんですが、1週間くらい時間をかけます。私は食いしん坊なので、なぜ蚊が性急に満腹にするのか興味があったし、違う生物から吸った血を異物だと認識しつつ利用するシステムにも興味がありました。
とにかく、先生とお話をした次の日から吸血のことで頭がいっぱいになってしまって、嘉糠先生のチームに加えていただきたいとお願いしたんです。慈恵医大では、教員として医学部教育をきちんとサポートしていれば、各自の研究は比較的自由なんです。嘉糠先生からも好きなように吸血の研究を進めていいと言われました。

台湾の昆虫学会に参加。右が嘉糠先生。

———当時、蚊についてはどのような研究が主流だったのですか。

蚊の研究は、一般的に感染症をいかにコントロールするか、というところから入るんですね。ですから、蚊がヒトや動物に寄ってくるしくみの解明が重要です。蚊に刺されなければ蚊が媒介する病原体はうつりませんから。次に蚊の数を減らす研究。殺虫剤の研究や、蚊の産卵・成長・繁殖を抑制する研究です。このあたりは当時も今も世界中の研究者が調べています。

———蚊が寄ってくるしくみは明らかなのでは?

蚊はおもに二酸化炭素と熱、においによって宿主(しゅくしゅ、寄生される生物のこと)を感知して寄ってくることが知られています。ところが嗅覚機能を失った蚊や二酸化炭素の認識ができない蚊も標的を認識できるんです。虫よけ剤としてよく用いられる DEET(ディート)*は、蚊のセンサーをかく乱させて宿主がどこにいるのかわからなくしているというところまでは明らかになっているのですが、詳細なしくみは完全には明らかになっていません。また蚊を誘引する究極の物質も未だに見つかっていません。絶対に蚊を寄せつけないしくみ、あるいはヒト以外へと寄せてしまうしくみが見つかれば、ある意味、蚊の研究はひとつの使命を終えるのですが、そう簡単ではないんですね。

*DEET :1946年に米軍がジャングル戦対策に開発した強力な虫よけ剤。化学名をジエチルトルアミドといい、昆虫忌避剤としてさまざまな商品名で市販されている。

———吸血のうち、どのようなテーマを研究しようと考えたのでしょう?

蚊が血を吸い始めるとき、血液を感知することが必要で、血液中のATP(アデノシン三リン酸)*という物質が吸血促進物質として主要なはたらきをすることは、すでに20世紀の中ごろには報告されていました。でも蚊がどうやってATPを感知し、吸血行動を制御しているのかは謎だったのです。そこで、蚊がどのようにATPを感知しているのか、またどんな血をおいしいと感じているのか、そして満腹を認識して吸血を止めるのかを調べてみようと考えました。それがわかれば、蚊の吸血意欲を低下させて感染症対策の手助けになるかもしれません。

*ATP(アデノシン三リン酸:Adenosine TriPhosphate):アデノシンという物質に3つのリン酸基(P)が結合した化合物。細胞の増殖、筋肉の収縮、植物の光合成、菌類の呼吸、酵母菌の発酵など生命活動で利用されるエネルギーの貯蔵・利用にかかわり、「生体のエネルギーの通貨」と呼ばれている。

誘引や吸血を制御するメカニズムを明らかにし、おなかがいっぱいになったと錯覚させたり、まずい血だとわかって吸うことをやめたりさせることができれば、感染症対策につながる。

———モデル生物であるショウジョウバエと違い、蚊の味覚の分子メカニズムなどを調べるのはハードルが高いのでは?

私が研究を始めたのは2015年4月ですが、その前月の2015年3月にネッタイシマカで初めてCRISPR/Cas9(クリスパー/キャス・ナイン)*で遺伝子編集に成功したという報告が出たんです。これでショウジョバエと同じように蚊の遺伝子も扱えるようになると思いました。ネッタイシマカは日本の在来種であるヒトスジシマカと非常に近い種なので、ネッタイシマカで研究を進めて国内の種に応用すればいいと考えたのです。

*CRISPR/Cas9:エマニュエル・シャルパンティエ(Emmanuelle Charpentier)博士とジェニファー・ダウドナ(Jennifer Doudna)博士が開発した画期的なゲノム編集技術。DNA配列の特定の区画をガイド役のCRISPRが見つけ出し、はさみ役となるCas9が切断することで、ねらった遺伝子の働きを壊したり、特定の遺伝子を挿入したりして、生命の設計図を書き換えることができる。

———蚊の研究が世界的に動き始めたのですね。

まさにそのころから、ショウジョウバエから蚊の研究に移行した研究者が大勢いました。ただ、いざ研究を始めてみたら、ネッタイシマカはショウジョウバエほど徹底した遺伝子情報は得られていないとわかりました。また、蚊はショウジョウバエと違って癖があり、ねらったところに外来の遺伝子を入れるのが難しいんです。

———やはりショウジョウバエとは勝手が違うのですね…。

蚊は飼育も大変なんです。蚊は卵からサナギまでは水中で、成虫は空中で生活しますから、途中で飼育場所を変えなければなりません。ショウジョウバエの試験管なら軽く1000本入るスペースに、蚊帳(かや)は6張りしか入りません。
吸血源はマウスの血を使っていますが、欧米では動物愛護の観点から研究者の腕から吸血させる場合もあります。それに、少し古くなった血液では吸いが悪くなるし、卵を産まなくなるんです。成分が明らかな化合物だけで作った人工血液が使えれば、実験のバラつきがなくなるので、もっか開発をもくろんでいます。

蚊の飼育は27℃に設定した部屋で行う。温度27℃、湿度90-100%に設定した恒温インキュベータの中で、成虫の入った蚊帳や幼虫を飼育するタッパーを保管している。右下は乾燥卵を15℃で保管している様子。

———困難だらけですね。

ただ、遺伝子情報については2018年にアメリカの研究者たちが企業なども巻き込んでコンソーシアム*を作り、ネッタイシマカの詳細なゲノム情報を出したので、ずいぶん楽になってきました。ビル&メリンダ・ゲイツ財団**も感染症対策として蚊の研究を支援していて、今ではハマダラカやアカイエカにもCRISPR/Cas9が使えます。
また、ヤブカは研究動物として見ると、卵の状態でうまく乾燥させれば数カ月もつという利点があります。ですから、研究室には私が慈恵医大にいたころからコツコツと作った60種類近い遺伝子編集した蚊が卵の状態で保存されています。それを必要なときに戻して使うことができるんです。そうしたツール作りにはずいぶん時間がかかったので、これからが収穫期だという思いでがんばっています。

*コンソーシアム:複数の組織や個人が共同で何らかの目的に沿った活動を行うために結成される事業体。
**ビル&メリンダ・ゲイツ財団:マイクロソフトの共同創業者であるビル・ゲイツが元妻のメリンダ夫人とともに創始した慈善財団。マラリアやポリオなど感染症対策や貧困撲滅などさまざまな支援活動を展開。2023年度の予算は83億ドルと世界最大。